事務所日記

SD部座談会ー前編!

こんにちは。新制作協会事務局です。早いもので今年も残すところあと10日程となりました。事務所日記もこちらで年内最後の配信となります。

振り返ると、SD部については企画のご紹介をしていなかったので、来年3月に建築会館ギャラリーで開催される「小さなスペースデザイン展」について、そろそろお話をうかがいたいなと思っている矢先に「新制作協会建築部」について研究をしているという方からお問い合わせがありました。

 

そこで建築部の創設からスペースデザイン部に至るまでの資料を集めたところ、出てくるのは日本を代表する建築家のお名前ばかり!図録の沿革や会報の記事などで拝見してはいましたが、よく考えたら1949年の戦後間もない頃に美術団体に建築部ってすごいことなのでは・・・。そもそもスペースデザインってなんだろう、建築とどんな関係があるの?やはりここは一度、しっかりうかがっておかなくては!と、2020年の締めくくりにスペースデザイン部企画委員会にお邪魔しました。

 

企画委員会は平日の夜20時からです。今回の会議は30分程度で終わるので、その後に座談会の場を設けていただけることになりました。企画委員会のメンバー以外に副委員長の尾埜先生もご参加くださるとのこと!色々準備をしなくちゃと業務終了後もPCに向かっていると、ポコン、ポコン、とメールの着信音が。2通のメールが届きました。

 

メールを開けると、1つは残念ながら本日は出席できないとおっしゃっていた白川先生からです。なんと昭和24年の「建築と社会」という雑誌に小磯良平先生が執筆された《 新制作派協会建築部設置について 》という記事のスキャンと、同じく昭和24年の「新建築」という雑誌に掲載された丹下健三先生の《 建築・彫刻・絵画の統一についてー新制作派協会展に関連して 》という記事のスキャンでした。漢字も旧字体ばかりで、いかにも当時のものです。

〈写真1〉  新制作派協会建築部設置について 1949年

〈写真 2〉 建築・彫刻・絵画の統一について 1949年


 

もう1つのメールは本日の座談会をセッティングしてくださった金子先生からです。1978年に大学内で発行された小冊子で、故 日髙單也先生がスペースデザイン部について執筆された記事が添付されていました。わくわくしながら旧字体を検索し必死に資料を読んでいると、数分後・・・。ポコン。またメールが届きました。

〈写真 3〉 新制作協会スペースデザイン部について 1948年

今度は、本日ご参加くださる予定の片岡先生から、会報Vol.76の「猪熊弦一郎と建築部」という記事と新制作四十年、五十年史の座談会部分のスキャンが添付されていました。重たい本を今日の為にスキャンしてくださったんだ・・・。先生方が大切に思っている協会の歴史を私達にも共有しようとしてくださっているんだと思うと、はじまる前からなんだか胸がいっぱいになりました。そしてどれもとても貴重な資料でした。

〈写真 4〉 猪熊弦一郎と建築部 2018年

そこで、私達も下調べをした際に見つけた資料の会報No.52と、「神戸貿易産業博覧会に置ける新制作協会建築部の活動において」という論文をお送りしました。論文はWEB上にあったものです。会報No.52には、新制作協会建築部が絵画部の小磯良平先生のご紹介で神戸貿易産業博覧会に深くかかわったこと、小磯先生がポスターを作成し、彫刻部会員がレリーフや彫刻を制作したことなどが紹介されていました。1949年という戦後すぐに、新制作協会は一体どんなことをしようとしていたのか、新制作協会がどんなことを見つめて84年間という歴史を重ねてきたのか、創立会員にお会いしたことがない私達でも、今日の座談会を通して少し近づけるかもしれません。

そんな想いを抱えながら、いざ、企画委員会へ!(以下、会話形式の部分は敬称略)

 

委員会のメンバーは代表委員4名(チーフの金子武志先生、五十嵐通代先生、白川隆一先生、吉田淳子先生)と企画委員の5名(片岡葉子先生、佐伯和子先生、杉田文哉先生、野口真理先生、前田亮二先生)です。残念ながら今回は五十嵐先生と白川先生はご出席がかなわず、特別にご参加くださった副委員長の尾埜先生、そして私たち事務員2名を入れると総勢10名となりました。杉田先生は遅れて見えるようです。(この後、ご登場とともに衝撃的なエピソードが・・・。そちらは後編で!)

 

チーフの金子先生が全体の進行役となり、会議と座談会がスタートしました。まず、議案は3月の建築会館ギャラリーでの企画展示のことからです。金子先生から会員30名、協友12名の合計42名のメンバーでの展示が決定したこと、原寸の台を実際に空間においてどのようになるかの検証がまだ出来ていないことなどのお知らせがありました。模型じゃなくて原寸を並べてみるんだ・・・。早くもSD部ならではの打合せに疑問が色々です。また、年始にはDMの入稿をするためDM制作のご担当者を決めたり、配置と空間を考える為に作品のイメージを先に出品者から送ってもらう方法、スケジュール、暗室をどうするか等が話し合われました。そこで佐伯先生から「白く塗るのはどうなった?」とご質問が。((白く塗る??))と内心思いながらも、取り急ぎ今は私達の「後で確認メモ」に残しておいて、会議に耳を傾けます。そして現時点での確認事項が一通り終わったところで気になっていた2つのことを伺ってみました。

 

 ―今回の展示では壁面を使わないのはどうしてですか。

(事前にいただいた企画書では壁面を使わない展示となっていたのですが、42名もの参加者がいらっしゃるなら壁を使った方が考えやすいのではないかと思ったのです。)

 

佐伯:今回は42名もの出品者があり様々な表現方法の作品があるので作品のサイズの設定をしました。スペースデザイン部は全体の空間のイメージをとても大事にしているので、どうやって見やすく整然と展示ができるかということを考えると台上に置いた方が良いのではないかということになりました。個人的な考えでは今回の45cmというサイズの縛りでは壁に掛けるものは立体より弱くなってしまう、初めてたくさんのミニアチュールばかりを展示するので安全な方法をとりました。

 

 

金子:スタイルを共通にすることで、今後この展覧会を継続したいと考えていることもあって、その都度いろいろなテーマや縛りがあったら面白いと思っています。今回は立体造形を作るということで空間が統一感で満たされるかなと思います。

 

 ― 先ほどおっしゃっていた「白く塗る」って何のことでしょうか。

 

金子:今回の展示は美術館で使っているような展示台を使いたいので、我々手持ちの展示台を集めたところMDFという木材でできているものしかなかったんですね。美術館での展示のように白く共通したものに乗せるという状態を作りたいので、それなら塗ろうということになりました。そういう(自分たちで展示を工夫できる)部分もSD部ならではかもしれませんね。

 

展示台まで塗ってしまう程のこだわりに、ますます興味津々です。SD部の企画展示は3月ですので今後も陳列に関してなど取材をさせていただきたいと思います。

この後、来年の本展への準備についてなどのご報告があり、いよいよ座談会へ突入です。

 

当日、お話が盛りだくさん過ぎて、ページの容量の関係もあり今回の記事ではすべてが収まりませんでした。今回は前編ということで、スペースデザイン部の生い立ちから現在の活動に少し触れさせていただき、続きは後編でお伝えしたいと思います。

スペースデザイン部の生い立ち

猪熊先生の呼びかけで建築部が創設。猪熊先生と脇田先生は敷物を出品!

― スペースデザイン部の前身が建築部であり、創設メンバーが誰でも一度は耳にしたことがあるような建築家ばかりというのは知っていたのですが、設立を猪熊先生が熱望されたことや、猪熊先生が出品されていたことなどは、会報Vol.76の片岡先生の原稿を拝見するまで知りませんでした。

第13回展の出品目録では、猪熊先生だけでなく脇田和先生も出品されていて、作品は「敷物」となっていました。創立会員の吉村順三先生もイス、テーブル、フロアランプなどを出品されていて、建築部にとっては初めての展示の際から現在のスペースデザイン部の前身となる様子がうかがえるのですが、当時1949年という戦後間もないころ、絵画や彫刻以外に、新制作協会で敷物やランプといった作品が展示されていたことについて、どう思われるでしょうか。どのようなことが求められていたとお考えになりますか。

〈写真 5〉 第13回新制作派協会展出品目録・建築部 1949年

 

尾埜:建築が総合芸術だということが一つ上げられると思うのですが、例えば宗教建築でいうと、そこに絵があって、彫刻があって、音楽が流れて神を讃える詩があって、いろんなものが教会にあり、そこから絵画、彫刻、音楽、踊りすべてが派生して独立していったように思うのだけれど、そこにもう一回全て集めてみようじゃないか、そうした時にどうなるかという試みがあったのではないか、そんな気がするんですよね。私は勝手にそう思っているのですが、佐伯さん、どうですか?

 

佐伯:そうですね、建築部の創立会員の方々は海外での生活で室内に家具やフロアランプなど良いものがあるという経験をたくさんされていたのかなと思います。猪熊さんはもちろんよくそういうことをご存じでいらしたし、でも誰もが建物を建てられるわけではないので建築にかかわるものを出品するとなると家具になったのではないかと思います。私も先ほどの尾埜さんと同意見で、純粋美術はむしろ新しくて日本でもお寺の中に工芸的な装飾物や襖絵、掛け軸などがあって生活の中でそういうものを使うという概念はあったと思います。いつのまにか絵は絵で美術館に掛けるものって風潮になってしまったけれど、それが戦後に開放的になったことと、やはり創立した建築家がおしゃれでセンスが良かったんだと思います。前川さんなんかすごくしゃれた家具を家に入れたり敷物を敷いたりしていらっしゃるから。そういう方が集まったのかなと思います。

 

金子:前川さんはコルビュジエの直接のお弟子さんでコルビュジエ自身が絵も描き彫刻も作り建築もやりという方ですし、同時代の教育ではバウハウスが建築と彫刻と絵画を重要視した教育だったので、創立会員は今よりもっとそこの壁がなくて、今もメディアアートやデザインがあるのと同じように、それが新しかったんでしょうね。当時新しく画期的なことを常にやりたかった、その対象が建築だったのかなと思います。

 

 ― 先ほどメールで、1950年の神戸貿易産業博覧会に関する資料をお送りさせていただきましたが、それを拝見すると当時小磯先生が建築部にそのお話を持ち掛けて、神戸の建築家ではなく新制作の会員を呼んだことに対すると反発があったけれど、いろいろな方の協力で成立したとありました。彫刻部の舟越保武先生や本郷新先生もレリーフを作ったり、菊池一雄先生をはじめたくさんの会員が彫刻を作って設置したり民間の芸術団体は後にも先にもない事業だったということで、なんとか3部で協力して次のステージに進みたいというエネルギーが伝わり感激しました。みなさまが出品されたころは、すでにスペースデザイン部に改名されていたと思うのですが建築部の創立会員はまだ出品されていらしたのでしょうか。

 

佐伯:池辺陽さんは出品していましたよ。システムキッチンで実物大でした。

〈写真 6〉 第19回新制作協会展会場風景(東京都美術館)1955年

〈写真 7〉第20回新制作協会展建築部会場風景(東京都美術館) 1956年


〈写真 8〉池辺陽 キッチン・78 1978年

〈写真 9〉「神戸博覧会」全体計画 デザイン=新制作 1950年


 

― 第22回展の図録で谷口吉郎先生が「新制作協会に「建築部」が設けられていることは、この会の特色だといつてよかろう。そのために技術者である私たちが美術家の仲間に入つているわけである。これは建築というものが工学的なものであると同時に、美的価値を重んずるものであるから、このような美術と建築の握手は、意義あるものだと私たちは考えている。従つて、それを誇りと考えている次第である。」(出典:〈写真10〉に同じ)という文章を掲載していました。

〈写真 10〉谷口吉郎 建築の展示 1958年

 

現在の新制作協会にスペースデザイン部が設けられていることも同じく会の特徴といえるのではないかと思います。現在はイスやテーブルのように使用するものではない作品の方が多いと思うのですが、建築部としての活動に共感する部分や面白いと思う部分があったら教えてください。また、当時のことでご存じのことなどありましたら教えてください。

 

佐伯:じゃあそれは片岡さんに

 

片岡:私は猪熊の縁戚にあたるんですね。今、弟が猪熊研究のようなことをしていて、たまたま建築部のことを調べたりしていたのですが、すごく資料が少ないんです。その建築部の資料を見ていると、「共働(きょうどう)」という言葉がよく出てきます。猪熊は建築がすごく好きで、デザインが好きで、浴衣やテキスタイルのデザインをしたり、キャンバスだけにとどまらず色んなことをしていました。建築部を創設したのは山口文象さんとのご縁がきっかけだったようなんですが、建築・絵画・彫刻の垣根を作るんじゃなくて、共に働く・一緒に作る、ということがきっかけだったんじゃないかなと思います。今、美術やデザインもグローバルになって垣根がなくなってきていることを思えば漸進だったのかなと思います。建築を展覧会形式にすることがすごく難しくて、実物は展示ができないし図面や模型だけでは展覧会として成り立たなかったり、先に雑誌で発表したりする機会があると展覧会での発表が難しかったり、そこからだんだん実物を出品できる家具などになっていったのかなと思います。確か池辺さんの奥様がテキスタイルのデザイナーだったこともあって、もう少し間口を広げるという意味でスペースデザインという方向になっていったんじゃないかなと思います。

 

金子:「共働」という言葉は、普段あまり使わない言葉だけれどすごく意味深い言葉だなと思います。神戸の博覧会のことなんていうのはなかなか難しいことですよね。一つの美術団体というより、分離派のような活動だなって思います。分離派って、ウィーン分離派とか色々あると思うんですけど、家具も絵も彫刻も共通に扱っていくような動きが、美術館の中で展覧会をやるっていう形式じゃなくて社会にアートをどう浸透させるかという気概を感じるというか。色々な方に声をかけて、猪熊さんじゃなきゃなかなかできないことだなと思いました。神戸の博覧会の資料はもう少し見てみたいですね。

 

片岡:四十年史、五十年史を見てみると四十年のころは山口さんや池辺さんも加わっていらして、読んでいると最初のころは彫刻も絵も一緒に展示していたみたいで、審査も一緒にして垣根もないようだったみたいですね。

 

前田:当時は頭が柔らかくて独創的な人が多かったのかなという印象を受けますね。

 

金子:建築部がうまくいったかどうかは人それぞれの考え方によると思うのですが、新制作建築部があったからというわけではなくても、現在に至るまで建築の展覧会って模型だけではなくてプロセスをみせたり図面を展示したり、現代アートと同じ目線でやれるようになって、見せることができていますよね。少なくとも最先端を歩いていた方たちが、美術や芸術の枠の中で考えていた人達がたくさんいたのかなと思います。日本は地震の多い国ということもあり工学系に建築が置かれているけど本当はそうじゃないんだよと、力学の勉強したり数学が得意じゃないととかそんなことばっかりだったけど、僕の先生の小野襄さん(SD部元会員)がそう言う思考じゃなかったのが僕にはとても新鮮で。その先に新制作があることも猪熊さんがいらっしゃることも知らなかったけど、創設期の方たちは絵画も彫刻も本当に柔らくて芸術家だったんだなと思います。

建築部からスペースデザイン部へ。

「使えないものを作る」初出品のきっかけは・・・

 

― 金子先生は小野襄先生との繋がりがきっかけで出品されたんですか。

 

金子:そうです。SD部には何人か先生の教え子がいて、本日出席の尾埜さんも私の先輩の一人です。僕は小野襄さんの造形研究室に入りたくて、ただその研究室では毎年新制作展に出すことが条件だったんです。それが簡単なことではなくて挫ける人がいっぱいいて。

 

尾埜:僕は、もともと工学部を出ているから作るのは好きだけれど、作ったことはないわけです。新制作に出せっていうからどんなものを出せばいいんですか?って聞いたら、使えないものを出せって。使えるものはデパートで売っているから作る必要ないって。それを強烈に覚えていますね。それでテーブルを作って真ん中に大きい鼻を置いたんです。まわりはぐちゃぐちゃにして。それで使えないテーブルを作った。それが最初の作品です。先生もきっと困ったんでしょうね。工学部の人に使えるものを作らせたら縮こまっちゃうからって。そんなことから始まりました。

 

佐伯:私が初めて出品したときは応募者が少なくて(部が)潰れてしまうんじゃないかという時だったらしくて、初めて出品したときは締め切り過ぎていたんですよ。その年はいつもよりも締め切りが早かったらしくて。それで電話してまだ搬入に間に合いますかってきいたら、今年は締め切りがいつもより早かったから大丈夫です、明日持ってきてくださいって。

 

一同:笑

 

佐伯:実情は人員確保もあって、持ってきてくれたらありがたいって時代だったんじゃないかしら。小野襄さんも必死だったのよ。そうそうたる建築家が亡くなったり辞めたりして一時代が終わってしまって。私は建築家って世の中で一番忙しい職業じゃないかと思うので、一年に一回作品を作るとか展覧会にかかわるというのは物理的に難しかったのではないかと思います。気持ちはあってもね。みなさん何年か後にはとにかく日本中で活躍していらした方だから。何年か出品しなくても会員でいらした方はたくさんいたし、観に来たりもしていたみたいだけれど。池辺さんは東大の教授だったから建築家の忙しさとは少し違ったのよね。池辺さんが小野襄さんをSD部に呼んだのよね。何とか活性化をしようと。

 

尾埜:そうです。池辺さんは奥様も一緒に作品を出されて、奥様はテキスタイルだったり籐やゴザみたいなものだったり、いろいろ試してやっていらしたよ。

 

佐伯:池辺さんもそんなに長くお話したりしたわけではないけれど、かなりアバンギャルドなイメージでしたよね。一度、僕はみんなでゴミ展をやったらいいと思うんだ、周りに反対されてやめたんだけどっておっしゃって。小野襄さんの使えないものに通じる部分があると思うけれど。建築家として何を作るかいろいろ模索されていたのかなって。今までのように模型や図面だけではダメだって気付いていらしたんじゃないかなと思う。

 

尾埜:40回展当時は13名だったんですよねSD部の会員は。今は会員も3倍になって作品も100点くらい応募がきたりするけど。

 

 ― テキスタイルはどなたが牽引なさっていたのでしょうか。

 

佐伯:藤本經子さんですよね。テキスタイルデザイナーとして活躍していらして、藤本さんは剣持勇さんの弟子筋なんですよ。剣持さんのすすめで留学もしたし。モダンなインテリアデザインの薫陶を受けたのは剣持さんからだと思います。

〈写真 11〉 第42回新制作協会展図録 (作品頁部分)1978年

池辺先生がシステムキッチンを出品されているのと同じ年に、図面やイス、テキスタイルの作品などが出品されています。

― 佐伯先生はどんなつながりで出品されたんですか。

 

佐伯:私は個人的なつながりは全くなくて。どこか出品するところがないかしら、と。工芸や民芸は全然違うし、でも個展だけでやっていく自信はなかったし、柱になるものが一つ欲しいなと思っていて、窓口を探していたんです。当時造形大の教授でいらした嶋貫昭子さんから新制作展があるわよって教えてもらったの。当時、モダンなプリントとか不思議なものがあるなという感じで、実は出品するまで新制作展を1度も見たことはなかったの。あなたに合うと思うわよって嶋貫さんの言葉だけを信じて(笑)

でも顔ぶれを見たら、ああこういう会なんだって私は建築にかかわる仕事をしたいと思っていたから、ここが一番近いかなって思いました。

 

金子:こんな機会がないと、長いお付き合いですけど初めてですよね、初出品エピソード。吉田さんはどうですか。

 

吉田:私は、最初山口和加子さんと2人で共同制作で出したんです。山口さんは1人で出品して入選したことがあったのだけど、初めて2人で共同制作で出品したのは立体だったんですよね。その時はもう和紙を使っていたんですけど。紙バンドで和紙をくるんで輪っかにして結構大きい組み合わせたものを2つ並べて初めて出して。それまで新制作は山口さんが出品した時に1回くらい見たんですけど、あまり身近なものに感じていませんでした。織物をやっていたのでテキスタイルっていう感覚はあったんですが、初めて出品した時には色んな立体があってびっくりしました。しばらく2人で一緒に出品していて、会員になってからテーマは一緒で別々に制作していた時期もあったんですが、それぞれ別に出すようになって、今に至ります。

 

金子:SDは共同制作を推奨するというか大きく認める、唯一のところですよね

 

吉田:そうそう、なかなかそういうところはなかったので、2人で制作していて、あ、出せるんだって。金子さんも共同制作していましたよね。

 

金子:杉田さんと野口育郎さんと三人で長さが10mくらいのね、作品を共同で出したことあります。小野襄さんの息子さんも出品されてて、一緒に作って受賞したんですけど、賞牌が1つしかないから。笑

 

吉田:私たちも2人で回しながら。賞牌。笑

 

佐伯:それも新制作が社会に向かっているっていう傾向の1つかもしれないよね。実際の社会で1人で物を作れるってなかなかないから。何人かで決めたりプロデューサーがいてアーティストがいて、デザイナーって共同作業が多いから。その訓練の場としても、それを認める発想があったのかもしれない。

 

金子:猪熊さんがすごくデザイン志向というか、そういう部分がありますよね、いろんな人と一緒にやっていくっていう。

 

片岡:なんでも同じ価値で見ていたような気がします。絵だけが純粋というのではなくて、すべて生活の中にも美があるという。

 

金子:野口真理さんはどうですか。

 

野口:私の場合も新制作にどなたも知っている人はいなくて、ものを作り出してある程度自分で形が作れるようになった時に、勉強がしたかったんですね。かなりの展覧会を見まくって、ひたすら歩き、ひたすら見て。そこでいいなと思ういくつか展覧会があったんですけど、新制作はとても新鮮だったんですよね。会場をみて回って、絵も彫刻も、自分自身がすごく楽しいと思って、勝手にインスピレーションを受けていいなって思っていたのが始まりです。

それで新制作に出し始めて、最初は作品が小さすぎて「うん、これは小さすぎる」と言われて落ちた気がするんですけど(笑)。次から大きくしなくちゃと思って、そういう事の積み重ねで出品しながら色々な人と出会って、グループ展に呼ばれたり、大きいものから小さいものまで呼ばれるままに、出してみようと思ったところには出して。単純に自分の気持ちだけで出して、出しながら作っていくうちに、新制作って存在が大きいんだなと。ふと思うと、ずいぶんその結果生まれた作品があったりして。他にも所属している協会があるんですが、そちらからも新制作のお話を聞くようになって、知らないうちにどっぷりと浸かっていました。そんなつもりはなかったんですけど、いつの間にか。見渡すとなんだか世間は狭かったという状態でした。

 

前田:初出品は学生の時だったと思うんですが、私は四国出身で当時は九州で活動していたもので新制作をみたことがなくて、美術団体というのもよくわかっていなかったです。染色・テキスタイルジャンルの制作をしていたので、作品ができたら公募展にだそうかなくらいの感じで進めていました。ただ作っているものが伝統工芸とかそういうものではなかったので、新制作展のデザイン部門をみつけて、そこがファイバーなど色々なものがあるジャンルだってわかって出してみたという経緯です。正直どういうところか知らない状態で出してみました。最初は落ちて、その次の年に入選して、初めて会場を見たときに空間の使い方とか色んなジャンルの作品があってすごく面白いなって思って。先生方と話しているうちに自分の作りたいものが見えてくるところもあって、それから継続してだすようになりました。

 

金子:もっと早くみなさんのそういう話を聞きあっていればよかったですね。

 

― 出品してから、考え方や世界が変わった部分というのはありますか。

 

佐伯:私は実は2回落ちているんですよね、最初のうちは落ちるとやっぱり落ち込む、落ちたり入ったりを繰り返すと何が基準がわからなくなる。でも途中で開き直って、私が落ちたのは審査員がダメだからだと(笑)落ちても入ってもいいから自分の好きなものを作ろうと思ったら賞をいただいたの。ある程度開き直るくらいの強いものがないと人の心は打たないのかもしれないなと思うようになりました。だから今でも、選外だったと半泣きで来る人には、あなたが悪いんじゃない、審査員が悪いのよと言っています。

 

一同:うなずきながら(笑)

 

金子:私も2年目の時に落ちて、もうやめようと思ってたんですよ。勉強も色々いやになっちゃって。でもせっかくだからバカみたいに大きいの作ろうって、周りにはそんな大きいの作って何になるんだって言われて。なんとか入選したのですがSDの展示会場に猪熊さんが奥様といらしていて、これを作ったのは誰って呼ばれたんです。これは面白いね、何の材料だとか聞いてくださって、今度僕の仕事場に来て教えてくださいと言ってくださって。周りはちっともめてくれなかったんですけど、猪熊さんは興味を持ってくださってそれがすごく嬉しかったです。そういう意味では猪熊さんはマチスに出会って大きな影響を受けたようですが、私は猪熊さんに声をかけていただいたことが大きなきっかけになりました。ある意味で僕の先生だって。それとやっぱり褒めてもらうのって大事だなって思いました。僕もなかなか褒めるの上手じゃないんですけど、すごく嬉しかったです。

この後、現在のSD部の楽しいお話がまだまだ続くのですが、前編はこの辺で・・・

企画委員会のみなさま、ありがとうございました。

 

先日の絵画部のレクチャー動画では、荒井茂雄先生が“猪熊先生に出会った日が僕のお誕生日です”とおっしゃっていました。新制作協会の創立会員であり、建築部を設立し、出会った全ての人の心の中にあたたかい灯をともす猪熊先生。どの灯も決して消えることはなく今も脈々と受け継がれています。今回は建築部の創設という視点からお話をうかがうことで、新制作協会が3部から構成されていることの意味や大切さも少し理解できた気がします。

 

今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。

次回は2021年1月の配信を予定しております。

どうか来る年がみなさまにとって素晴らしい年でありますように!

 

事務局 峠・桑久保

参考文献一覧

〈写真 1〉 小磯良平 《 新制作派協会建築部設置について 》 日本建築協会 「建築と社会」 1949年12月号 p20,21

〈写真 2〉 丹下健三 《 建築・彫刻・絵画の統一について 》 新建築社 「新建築」 1949年11月号 p372,373

〈写真 3〉 日髙單也 《 新制作協会スペースデザイン部について 》 日本大学生産工学部 「築 KIZUKU」 1978年12月号 p18,19

〈写真 4〉 片岡葉子 《 猪熊弦一郎と建築部 》 新制作協会広報誌 「新制作 Vol.76 2018・冬号」 2018年 p5

〈写真 5〉 新制作派協会 「第13回新制作派協会展出品目録」 建築部 1949年

〈写真 6〉 新制作協会 「第20回新制作協会展図録」 1956年

〈写真 7〉 新制作協会 《 写真で綴る新制作協会の50年 》 「新制作50年」 1986年 p15

〈写真 8〉 新制作協会 「第42回新制作協会展図録」 1978年

〈写真 9〉 新制作協会 《 座談会-新制作の40年- 》 「新制作四十年記念素描集」 1976年

〈写真 10〉 新制作協会 「第22回新制作協会展図録」 1958年

〈写真 11〉 新制作協会 「第42回新制作協会展図録」 1978年